しばらくぶりで隠居のつぶやきだ。
何たってじっとしてTVをみれば下らぬ番組ばかり、日本中、いや世界中がおかしくなってしもうた。
去年の10月にあるところで講演をしたのだが意地悪じいさんのつぶやきが現実の問題となって、今年になってあら大変ということになってしもた。
以下はそのときのものだが、人間、勘違いはいけません。何か皆勘違いしちゃって自分が偉いと思ってしまったのじゃ。ものつくりを一生懸命やらないと行けないってえことなんじゃよ。
【司 会】 皆さん、こんにちは。本日は、「富岡製糸場世界遺産講演会・シンポジウム」においでいただきまして誠にありがとうございます。私は本日の司会役をおおせつかりました、富岡市教育委員会世界遺産推進課中村奈緒と申します。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
それでは、これより講演会を始めさせていただきます。後援会に先立ち、主催者を代表いたしまして、富岡市長 岩井賢太郎よりごあいさつを申し上げます。(拍手)
【岩井市長】 皆さん、こんにちは。これから講演会を始めさせていただくわけでございますが、このように多くの皆さんにご出席いただきましたことを心から厚く御礼を申し上げたいと思います。
また、これから絹産業に造詣の深いお二人にご講演をいただくわけでございますが、大変ご多忙の中にもかかわらず、わざわざ富岡までおいでいただきましたことを、この場を借りて、厚く御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
また、特に椎野さんにおきましては、シルクの老舗であります椎野正兵衛商店の店主でもございますが、純日本の絹、高級シルク製品を製造販売いたしておりまして、注目を浴びておられます。また、富岡シルクブランド協議会の絹製品に関係して、大変なご協力をいただいているところであります。
また、昨年、福田総理が洞爺湖サミットを開きました。そのときに絹の風呂敷をつくっていただいたのも椎野さんの製品でありまして、各国のご婦人に風呂敷をプレゼントしたと、こういういきさつもあります。その風呂敷がスカーフに姿を変えて今日はあそこに飾ってありますので、どうぞお帰りの節は、見ていっていただければありがたいと思います。
また、クリスチャン・ポラックさんは、日本とフランスの交流に関する研究における第一人者でございまして、5月に東京大学総合研究博物館で開催されました企画展であります「維新とフランス」では、私も拝見させていただきましたけれども、ポラックさんのコレクションが展示の中核となった素晴らしい展示会でありました。
さらにシンポジウムでは、歴史家のアレキサンダー・バーン先生にも加わっていただいて、富岡製糸場の本当の価値について話を進めてまいりたいと考えております。世界遺産登録に向けてフレッシュなご意見を伺えることと期待をしているところであります。
また、皆さんご承知のとおり、明治5年に建てられました富岡製糸場は、日本の産業を世界に知らせるとともに、日本の文化、経済の発展に大きく貢献をいたしました。富岡製糸場は日本の近代化を推し進めた産業遺産でもございます。富岡市では、この建物としての価値ももちろんではございますが、周辺地域の整備、観光とのタイアップ、絹産業の保存と振興など、さまざまな角度からの取り組みを行っているところであります。これらは日本の近代化を推し進めた絹産業遺産である富岡製糸場の普遍的な価値を全国に発信するものでございます。ぜひ、皆さまからもご支援をお願いしたいと存じます。
結びに、本日の講演会、ならびにシンポジウムの開催にあたり、関係の皆さまのご苦労に対し心から感謝を申し上げますとともに、ご参加いただきました大勢の皆さま方には、講師先生の講演を十二分に堪能していただきますようお願い申し上げまして、大変簡単でございますけれども、開会のあいさつに代えさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
【司 会】 ありがとうございました。それでは初めに、椎野秀聰さんによる、「ものづくりの本質」と題して、ご講演を頂きます。椎野さん、壇上にお願いいたします。(拍手)
【椎 野】 今ご紹介いただきました椎野でございます。市長に大変素晴らしい紹介をしていただいたんですが、実はそんな大した男ではございませんで、皆さんにお話ししていいものかどうかわかりませんが、今日は少し、何でおまえがここに来たのかということを、しゃべってみたいと思います。
まず、このお話を頂いたときに、私が何でここに来てそういう話をしようかなと思ったということが幾つかあるんですね。最初に、皆さん、「杜子春」という話をご存じだと思うんですけれども、あれは芥川ですか。中国の故事に倣って、杜子春という若者の話がありますよね。私が好きなのは、あの杜子春という若者が、唐の洛陽の門のところに立っているわけですよね。そこで何かいいことないかなと、金が欲しいなとか、思っているわけですね。そこに仙人が現われて、「おまえ、何を考えているんだ」と。「私、豊かになっていろいろなことをしたい」。「そうか」と。「では、おまえ、夕日のときに、おまえの頭の影のあるところを掘ってご覧なさい」と。そこを掘ると、お金がいっぱい出てきて、杜子春は豊かになるわけですよね。それでもう、いろんな人にちやほやされて、それで飲めや歌えや、毎日続けてやっているうちに、だんだん財がなくなると。そういうものがなくなってくると、1人去り、2人去りと、みんないなくなっちゃう。で、またこじきになっちゃうんでしょう。
こじきになって、また唐の洛陽の門のところに一人立っていると。するとまた、あの仙人が現われて、「おまえ、どうしたんだ」と。「いや、お金があるときは、人がいっぱい来たけど、お金がなくなると、誰も来ない」と。「もう一回金持ちになりたい」と。もう一回金持ちにしてもらうわけですよね。だけど、もう一回やっても、また同じことで、お金があって、人はいっぱい来るんだけど、それがなくなると誰も来ないわけですね。
で、3回目に杜子春は、「仙人になりたい」と、今度は言うわけですね。「じゃあ仙人にしてやるから、修業しろ」と。で、みんなこれ、知っている話ですけども、仙人になりたくて、ずっと修業していくわけでしょう。絶対にものを言ってはならんと。痛い針のむしろの上に座っても、痛いと言わない。もうどんな苦しいことがあっても、我慢していると。ところが、最後に、自分のお母さんがいじめられているところに遭遇するわけですよね。最初は無視している。仙人になりたいから。だけども、最後にやっぱり「お母さん」と言ってしまう。それで、その仙人が後で、「いや、おまえがもしあのとき、お母さんと言わなければ、おれはおまえを殺したんだ」って、こういう話ですよね。何か胸が痛くなりませんかと。
我々日本人は、この富岡から始まった工業化、インダストリアル化の中で、非常に豊かな生活を築いて、私もそうですけど、ここにいる人の多くは、家にもテレビのない時代があって、食べるに困っていた時代があって、ついこの間じゃないですかと。そのたかだかわずかの間に、何かちょっと勘違いをしてしまって、世界中、何か日本のブランドで埋め尽くしてしまったと。
私が30代から世界中駆けずり回っていろんなものを、自分のつくったものを世界に紹介して動いているときに、だんだん、だんだん、世界の大きな都市のビルの上にあるサインが、ほとんど日本の製品の会社のものになっていくわけですよ。きれいな夜を見ると、大体SONYとか、VICTORとか、何か日本のブランドがバーッとあるんですね。一体これはどういうことなんだと。工場に行けば、朝から晩まで、ものをガンガンつくるわけでしょう。朝10時ごろ、何か材料を入れると、3時ごろには、ものになって出てくるわけですよね。こんなこと続けたら、世界中もう、日本のもので全部埋め尽くしちゃわなきゃならんと。だけど、そんなわけにはいかんだろうと。日本という小さな島国が発展することは大いに結構ですけれども、あまりにも度が過ぎてしまうと、やっぱりこれはうまくいかないんじゃないかというふうに思っていたんです。
で、30代ぐらいから、何か変だなと。でも、そんなことをその時代に言ったら、おまえ、ばかだと。何を考えているんだという時代だったですよね。みんな、とにかく豊かになりたい。豊かになりたい。それで、もう何か、うちが欲しい。車が欲しいと、いろんなものを求めていった。
その成功の鍵を握っていたのが、明治の初期に殖産興業ということで、この富岡製糸工場を日本政府が一つの工場化をするためにやったんだと思うんですね。その前にあった日本のものというのは、大変良質ないいものをたくさんつくっていまして、明治の初期に外国人が日本に来たとき、すごく驚いたわけですよね。こんな文化の高い、質の高いものをつくり、質の高い食事と、江戸の幕府が崩れるときでも、なおさら秩序を持てる国というのはあまり見たことないから、この国を属国にするには難しいななんて向こうの人は思っていたわけですね。よもや、日本人はそんなことは思ってなかったわけですね。黒船が来て、門をたたかれて、驚いて底抜けて、何か明治政府をつくったみたいなことを言っているけれど、実はそうではないんだと思いますね。長い歴史の中で、日本人の持っていた、そういうものがあった。でもそれまでは、工場制手工業といいますかね、あるいは家内工業というか、そういうところでいいものをつくっていたんです。
それが、この富岡にこの建物をつくったことをきっかけに、インダストリアル化というか、工業化の世界に入っていくわけですね。世界のトヨタさんでもぐらついて傾くような事態になるまで、誰も疑いもなくこの方向が正しいと思い、いろんなものをつくり続けて世界中に売りまくってきたわけです。ついこの間までですよ。ふと考えてみると、一体我々は何のためにものをつくってきたのかとか、一体どういう文化、歴史の中で生きてきたのかということを忘れてしまったんじゃないかと。
私も楽器や音響の会社をやっていましてね、結構世界では有名になったんですけれども、大きくしないということを第一条に挙げていたんですよ。マーケットというのは、必ず限界があって、リミテッドラインがあるんですね。それを超えたときに、突然やっぱり崩壊するんですよ、みんなが。でもそれを、日本の人というのは、たぐいまれなるコツコツと働く、そして勤勉な熱心な気持ちでものづくりをしたために、大きな成功を収めた。だけど、大きな成功を収めて、皆さん、今日、幸せですか。私は別に新興宗教の教祖じゃありませんから、幸せですかなんて聞きませんけれども、何かみんな幸せじゃないんですよね。何かちょっと変だなと思っているんですよね。
それで、実は若者で、成功した日本マイクロソフトの成毛なんていうのが来て、「椎野さん、やっぱり明治の初期に戻らなきゃ駄目なんですよね」と、こう言うわけですね。「いや、そうなんだよ」と。「そんなこと、やってるよ、もう」と。明治の初期に日本は何をやっていたんだと。世界と仲良くするためにどうしたらいいかと。まず自国の産業で通用するものはないか。その中で出たのは3つしかなかったんですよね。シルクと、それとチャイナ、つまり陶器と、あとお茶だったんですよ。緑茶がもう、そのときは大変大きな数字で輸出されていたんです。そういうところにもう一回戻らないと駄目なんじゃないかと。
ところがそういう意味で、その当時の建物が残っていると。そのまま保存されているなんていう、こういう資産というか、遺産であるんだけれども、資産を有効に活用するということをもっと考えたほうがいいんじゃないか。もうありませんから。横浜は関東大震災でほとんどもう、全部つぶれて崩壊して。私のばあさんも、がれきの下で死んでいるわけですよね。もう何もないんですよ、そういうものが。東京も空襲でもうほとんどB29にやられていると。地方にしか、そういうものというのはなかなか残ってないんですね。しかもそういう工業化の最初の建物が残っていると。これはすごいんじゃないかと。
富岡の人はどう考えているか知りませんが、一時ソニーさんのブランド価値が2兆円するとか何か言ってね、今は2兆円もないかもしれませんけれども。でも、富岡のそういうブランド価値みたいなものと、こういう建物のブランド価値というのは、皆さんが考えているよりすごいんだと思うんですよね。とんでもない金額なんですよ。だって、これをつくるって、つくれないわけですよね。人間は百何十年も前に戻れないんですから。イミテーションはできるんだけど、その当時のものがそのまま残っているものを今つくるということは不可能なわけで、そういうものの価値を、皆さんもあまり毎日見過ぎているので、ご存じないんじゃないかと。だから、私なんかは、富岡はすごいなと。こんなものがまだこんな形でよく残っていたと。素晴らしいと。これを続けた人っていうのは偉いなというふうに思いますよ。
でも、ここで毎日見ている人は、これは当たり前なので、当たり前のように見ているわけで、そこの違いを今回、ポラックさんとか、アレックス・バーンさんとか、そういう海外の人が見たときにも、ここはやっぱり価値があるだろうと。そういうものを皆さんにご理解いただく機会ができるなら、じゃあ、恥を忍んで皆さんの前でお話をしてもいいですよということが、今回の私のテーマなんですね。
つまり、杜子春のようにいい気になってしまった日本人がもう一回日本人の良さを見いだすというためには、自分たちでわからなくなったことは周りの人に聞いてもいいわけですよね。「ほかの国の人から見て、僕ら何かおかしい?」という聞き方もあるわけですね。そういうところに立ち返ると、実はここの持っているポテンシャルの大きさ、それからその資産価値とか、そういうものが一挙に花開くのではないかというふうに思います。
私は今から約15年ぐらい前に、自分がある年になったら仕事を辞めて何がしたいかということを考えたことがあるんですね。そのときに、ああ、そうかと。曽祖父が何かシルクとかいうのをやっていたらしいなと。こいつをちょっと勉強してみようかと。で、勉強しだしました。明治の日本人。明治のジャポニズムというのは一体どういうものであったか。その当時まだ、ジャポニズムの研究というのは、日本では深井晃子さんぐらいがちょっとやっているぐらいで、ほとんどの人はあまり関心がなかったですね。でも、ポラックさんなんていうのは、20年前から日本に来てそういうことをやっていらっしゃるんですよ。だから、我々以上に日本のことを知っているわけですね。よーく、ご存じだと。何で肝心の日本人がそういうことに関心ないのかなというのが、これはとても不思議だったんですね。
それから一体この富岡から出たシルクの糸というのは、どこに行ったんだ。どんなものになっていったんだ。これ、誰か知っていますかと。それから、日本のシルクというものが、一体どんなレベルのもので、現在どうなっているのか、調べましたかと。いろいろ皆さんに聞いてみると、みんな知らないんです、意外と。おかしいなと。どこへ行ってもわからない。
最初、あそこに座っていらっしゃる清水先生のところへ行って、「日本のシルクのことを聞きたい」。それから、日本蚕糸会とかいうところへ行って、「日本で一番いい絹糸は何だ」と、いろいろ聞いているわけです。すると、「あんたのそういう話というのは、30年間聞いたことないな」とか言うわけですよ。「そんなね、日本の糸でものをつくるなんて、そんなやつは30年間聞いたことない」とかなんか言われちゃうわけです。「いや、そんなこと言ったって、日本はシルクで一時、世界の大国になったじゃないですか」と。「何で崩壊したのかちょっと調べたい」ということで、15年ぐらいかけて、最高のシルクの製品をもう一回日本の糸でつくれないかと思ってやってみたんですね。そのときに、明治のジャポニズム、あるいは明治の日本人を外国人がどのようにして興味を持ったのかということがだんだんわかってきて、「ああ、そうか」と。じゃあ、私も飽食の時代にうまいものを食べ過ぎまして、血糖値がこんなに上がっちゃって、いつまで生きられるかわかんないから、生きている間に少しでも、そういうお話ができる機会があったらしてみようかなということで、ここに立っているわけなんですね。
それで、日本人のものづくりのすごさというのは、これは皆さまもご承知だと思いますけれども、種子島に鉄砲が伝来したのが15世紀ですかね。種子島太郎というのがいて、そこにポルトガル人が鉄砲を持ってきたと。そうしたら、こいつをちょっとつくってみたいなと思ったわけでしょうね。どうやってできているのかなと考えるけど、なかなか教えないわけですよ。で、教えないで帰ったときに、自分の娘を付けて帰すんですよね。聞いてこいと。で、寝物語に聞いてこいと、こう言うわけですね。ところが、なかなか言わない。言わなくて、ずっと船がインドを回って、ちょっと回ったころに、「まあ、こんな16の小娘がここから帰れないだろう」と、「今日、教えてやるか」と思って、あれは実は銃身にらせんが切ってあるんだと教えるわけですね。次の日に、彼女は日本に帰る準備をして、そこからはるばる日本に帰ってきて、「お父さん、あれは銃身にらせんが切ってあるんです。だから球がビューっと真っすぐに飛ぶんです」と教えちゃうわけですね。その次の年に、日本は世界一の鉄砲の生産国になっているんですよ。
つまり、日本人というのは、何か特殊なDNAを持っているのですね。何かをつくろうとかなったときに、すごいエネルギーが出るんですね。それだけじゃありません。私がいろんな、もう、世界のアワードを取った、楽器や音響機器や、そういうのをつくっていたときでも、正倉院の御物を見にいったときに、「ああ、駄目だ」と思ったんですよ。正倉院の御物ですから、あの時代ですよ。天平の時代にもう、そういうものができていて、いろいろなものができているわけですよ、あそこには。それをじっと見たときに、負けていると。おれは何を図に乗っていたんだと。世界のアワードを取れば、それはおれは世界一のものづくりだなんて思っていた。ところが見たら、そのデザインとか、細工とか、とても足元には及ばない。素晴らしいものですよね。中にはペルシャから来た茶わんとかそういうのもありますが、日本人のつくったものでも、当時のものを見ると、その工芸技能のすごさ、すごい高いものがある。
もちろん、日本以外どうなっているか……。私はまだ発展する前に、中国の唐の都ですね、あそこに行って、兵馬俑を見てきて、「これは後でつくって埋めたんじゃないか」と言って、中国人に怒られたんですよ。「おまえは、なんちゅうことを言うんだ」と。「いや、でも、あそこで同じコピーしたのを売っているんじゃないか」と。「あれに泥を付けて、もう一回埋めて出したんじゃないか。おかしい」と。そのときも、楊貴妃のいた家や、何かいろいろありますよね。中国の古いものや建物、中国でつくられたものを見る。そして同じ年代の日本のものを見ると、明らかに違う。何が違うのか。日本のものは本当によくできている。もともとオリジナルを持っていないのに、オリジナルをしのぐようなものを日本人はつくってしまう。一体これは何なんだろうというふうにずっと考えていたんですね。
それで、失ってしまった日本のシルクというのをもう一回やってみたいなと思って、もう日本全国の養蚕農家に行って、だまされ続けまして。「この人は日本一だ」なんていう人のところへ行くわけです。そうすると、日本一変な人なんですね。(笑)それでもう、でき上がってくるものが、もうとんでもない、トラックで何倍も捨てるわけですよ。せっかく本当にいいものをつくろうと思って、何億か金をつくっているのに、そんなのすぐなくなっちゃうんですよ。みんなだまされ続けて。もうみんな、織屋さんなんて、最初の2メートルぐらいいいのをピッと見せてね、「すごいでしょう」と言って。そこから先は全然ひどいんですよ。そういうものを売っているんですよ、「これが織物商だ」とか言っちゃってね。糸屋さんもわからない。それでもうどうしようもないので、自分で蚕からやってみて、糸をつくってみてと思って、こういうことをやらなきゃ駄目なのかなと思っていたんですよね。
ところが、ごく最近、トヨタがおかしいと。「トヨタっておかしくなったんじゃない?」なんて言っていたんですよ。「なぜ」って、「だって、故障しないしさ」。トヨタの人、いると、すみませんね。故障しない、静かだなんて言うけど、車っていうのは、静かで故障しないより先に、ちゃんと走って止まらなきゃいけないわけですよね。制動っていうのが最初だから。ところが、「何かお尻振れるよな、トヨタの車って。高速あぶねぇな」と、そう思っていたんです。何か本質が違うんじゃないかなと。
そうしたら、つい最近ですよ。具合が悪くなってから、昔のトヨタの部長さんをやっていた人が来て、「あんな世界一の生産台数にするなんていうことのほかに、トヨタの価値を違うことを考えた社員はいなかったんですか」と聞いたんですね。「いました」と言って、ポケットから出したものが、初代の豊田佐吉が持っていた家訓なんですよ。昔はその家訓をトヨタの部長クラスがみんな持っていたと。何て書いてあると思いますか。4つしか書いてないんですよ。私も頭が良くないので全部覚えていませんが、一番最初に書いてあったのは、「一生懸命いいものを作り、勤勉に働け」と書いてありましたよ。その次に書いてあったのは、「質素であれ」と書いてあったんですね。あんなレクサスなんて、でっかい店つくって、何か高い車を売れなんて書いてなかったですね、まず。で、3番目が何かで、4番目が、「もうどうしても駄目だったら、神や仏を敬え」と書いてありましたね、確か。この4つを大事に持っている人がまだいるんですよ、トヨタの中に。
それでトヨタの会社を調べてみると、なぜ豊田佐吉は成功したかというと、成功しようと思って成功してないでしょう。あの人もこういう糸から自動織機をつくって、それで豊田織機をやっていた。そのときに何と思ったかというと、一番いい織機をつくろうと思っている。それがトヨタの精神なんだと。それで織機をいくらつくっても、最終的に気が付いたことは、糸が悪いと織機が良くならないということに気が付くんですよ。糸が駄目だと、どんないい機械をつくっても、うまく織れないんだと。それで、豊田佐吉は、実は蚕を飼うんでしょ。それで、ファームをやるんですよ。で、糸を上げる。それで、いい糸を上げて、いい織機を使ったときに、最高のものができるということに気が付くんですね。それで一生懸命つくっているうちに、織機が売れて大もうけして、「これからの時代は自動車の時代だから、このお金を次の時代につかってちょうだい」と言ったんですよ。
それで、この間、世界一になったなんてすごい話を聞いて、何かもうトヨタはすごいんだと、こう聞いていたけれど、何か最近、「ああ、おかしい」とかいう話になるわけですね、急に。というのは、何か創業した豊田佐吉の気持ちをどっかでねじ曲げちゃった人がいるんじゃないかというふうに思っているんですね。誰だとは言いませんが、そういう人がいる。
それはソニーも同じですね。ソニーは設立の書というのがあって、それで何だと。エンジニアがこういうものをつくりたいというものをつくろうじゃないかと。みんな、ソニーはトランジスタを最初から考えてつくってもうけたと思っているんでしょう。大きな間違いなんですよ。ソニーは最初、電気座布団とかいろいろなものをつくるんですよ。全然売れない。それはやっぱり、エンジニアがこういうものをつくりたいというものをつくるということは、それだけのリスクもあるし、冒険でもあるんですね。だからうまくいかなかったんですよ、最初は。だから盛田さんというのが、実家のみそ屋から一生懸命お金を借りたり、いろいろしたんじゃないですかね。井深大さんも。だけども、ものづくりをしたいという人の気持ちで、ものをつくろうという、その設立の書というのは延々と生きていたんですが、これもどなたか違う方が途中で曲げちゃって、「ソフトを持てばハードメーカーは強くなる」といって、何かアメリカのムービー会社とかいっぱい買って、もうすごいですよ。銀行までつくっちゃって、「おれたちはもう、自分たちで何でもできる」って言ったとたん、何かグラッといっちゃったわけですね。
何かそういうことが日常茶飯、周りに起こっていませんか、皆さんの。もっと我々は賢い日本人だったはずなんで、私は賢くありませんけどね、賢い方はもうちょっと今のうちに考え直せば、いろんなことができるんじゃないかという気がしているんです。特にものづくりというものに関して、もう一回やる必要があると。アメリカだって、強かった1960年代っていうのは、ものをつくってましたよ。みんなピンクキャデラックとか、それからPhilcoのラジオだの、みんなもう、いいものをつくっていたじゃないですか。だから彼らが一生懸命働いて、ものをつくるところでできたクリエイティビティを国の発展に使っていたんですよ。今、アメリカは、金で金を生もうと思っているから、なかなかうまくいかなくなっちゃったんですね。結局だまさなきゃもうからなくなってきちゃったわけですよね、だんだん、だんだん。
だから、今からやっぱり15年ぐらい前ですかね、アメリカのキャビンに入っていたシドニー・ハーマンという人は、通産大臣か、通産事務次官なんかをやっていたんですけど、この人は私の会社を買いに来て、私なんか三十幾つの小僧でね、「おまえの会社を買ってやる」と言うわけですよ。それで、その人はボルボというスウェーデンの会社とか、ナイキというアメリカのシューズの会社のやっぱり経営顧問をしていて、もともと経済学者なんですね。で、この人が、「おれ、コロンビア大学で先生をやっていたんだけどね、せっかくの機会だから2時間講義をしてやるわ」と言うんですよ。いいじゃないですか。タダで聞けるなんていうのはね。「じゃあ、聞きましょう」と聞いたんです。それで、そのシドニー・ハーマンという人が言った内容は何だと思います?
どんなに苦しくてもものづくりをやめてはならんと。見てみろと。アメリカはものづくりをやめることによって、失っているものがたくさんあると。まず家庭が崩壊するぞと。次に社会が崩壊して、国が崩壊すると。その旗頭で今出てきたのが、レーガンという大統領なんだと、こう言うわけですよ。彼はジミー・カーターの側近だったので、そう言うわけ。それが本当かどうかは知りませんが、でもそのシドニー・ハーマンの言ったことは、当時私もそう思っていたんですね。
やっぱり汗水垂らしてものをつくったりするということがいかに大切かということは、もうおぼろげながら30代のときにそう思い続けていて、まあ、あそこに私のかみさんがいますけども、「あんた、何やってんの」と。「家庭も何もほったらかして、あんたはもう何をやってんのかわからない」と言われるぐらい一生懸命やっていた時代があったんですね。そのときにそういうお話を聞いて、「そうだな」と思ったんですね。日本人がものづくりをやめたら、日本人の特性はなくなっちゃうんじゃないかなと。だって、さっきも言った鉄砲もそう、何でもそうですけれども、もうすごいですよね。安土桃山から江戸時代にかける着物の織りのきれいさとか、染色とかね。そういうのを見ると、すごいなと。この間、清水先生が、「あれはベトナムから来た糸で織っているんだよ」なんて言われて、腹が立って、今、一生懸命「そんなはずはない」といって今探している。「小島さん、調べろ。そんなはずはない。日本にはもっといい糸があったはずだ」と、こう言っているんですけどね。
私は、日本人の特性というのは、そういうところがすごく優れているのであって、じゃあ日本人が世界で活躍しているお金を生むような人たちと戦っても、勝算はあまりないと思いますね。メンタリティーといいますか、ものの考え方が根本的に違うんですから、金で金を生んだり、金で人を売ったりするということは、あまり日本人には向いていないような気がいたします。
実はさっき市長からご紹介いただいた、私の曽祖父の、椎野正兵衛というのがおるんですが、そんな男は私も知らないし、みんなも知らないわけですよね。「そんなやつがいたのか。原三渓は知っているよ。だけど、椎野正兵衛なんか知らないよ」と、こう言っているわけですね。でもよく調べてみると、何か原三渓と、何か所得の番付なんかを見ても大して変わらないんだよね。それで私の父親というのは、曽祖父のことを一言もしゃべらないで死んでいったんですよ。よっぽど嫌だったのか、わかりませんが。
それで、いろいろ調べてみまして、この間、小島さんが、「椎野さん、何か正兵衛の記事が出ていたけど、明治時代にハンカチだけで1億5,000万、当時の金で売ってますよ」なんて、この間計算したら、すごい数字なんだよね。1兆5,000億ぐらいなんじゃないですか、今のお金だと。羽二重のハンカチだけで、それだけ売ってるんですよ。
それで何か調べたら、アレックスが、「これ、昔、江戸時代に出したドレスの箱が出てきた、アメリカから」とか、いろいろ持ってくるんですね。それで見ていると、「へぇー。だけど、こんなことやったって誰も知らねぇな」と。何か、横浜の墓の中で眠っているわけですけどね。ますます興味がわいて調べてみました。
明治の男というのはすごいなと。有名になった人はいっぱいいるんですが、それは有名になりたい人なんじゃないですかね。名を残したい人と、名を残したくない人というのがいるんだと思いますが。大体、横浜のいろんなことをやられた人というのは、すごく思い入れが強くて、例えば宮川香山という、あの真葛香山と言われている陶器の名人は、あれは正兵衛がフィラデルフィアの万博に推薦して連れていった男で、パリの万博では2人とも賞位を取ります。当然、ここの糸も、後で岩井さんからお話しいただけると思うけど、ウィーンの万博で日本の政府が初めて出した万博で、富岡は賞位を取っている。正兵衛も取っているんですね。
でも、その彼が何でそんな明治の初期、江戸の幕末ですね、ちょうど横浜の開港が1859年ですから、そのときにもう既に英語の広告を出したり、幕府の御用商人として出て、これはシルクは日本の産業になると思ってやっていたかということを、本当に調べてみまして、男のロマンを感じましたですよ。
それだけの富と名声を全部持って、誰にも言わないで死んじゃうんです。やってみたいな、そういう格好いいことを。もうそんなことはなかなかできないだろうと。そこまで金持ちで、世界中知って歩いていたら、何か自分ででっかい碑の1個でもつくって死ぬかと思うと、普通の墓の中に入って死んでいると。よくよく調べてみると、息子や弟の椎野賢三や、これも何か随分いろいろなことをやっていたようですけど、起立工商会社の松尾儀助なんかと、そういう者には一銭も金をやらんと。それじゃあ、もうかった金はどこにいったんだろうと。ちょっとでも残してくれてれば、私もこんなことをしないで済んだのにと思っているわけですよね。
すると突然、4年か5年前に、日本美術協会というところから電話があって、その日本美術協会の100年に向けて、今いろいろ編纂をしていると。その前身に龍池会という、有栖川の親王が総裁をやっている組織があると。ここのパトロンの椎野正兵衛というのは、もしかしてあなたの親戚かと連絡があったんですよ。住所が同じだと。それならば、資料を送っていただけませんかということになりまして、そこで初めてわかったんです。ほお、こんなことをやっていたのかと。つまり金は全部、文化につぎ込んで死んじまったと、何にも言わないで。これもすごいなと。今の、日本人なんて、金がなくたってありそうに見せて、でっかいものを建てて、「おれはすごいだろう」なんて言うんだけど。そんなことは一言も言わない。何か男のロマンを感じるねというふうに思ったんですね。
それで、じゃあ、その人は一体どういうもののつくり方をしていたんだろう。横浜では謎とされていると書いてあるんですね。誰にもサンプルも見せないと書いてあるんですよ。嫌なやつだなと思って。でも、わかるんですよ。もう、みんな盗むんですよね。日本人って二通りいるんですよね。何かそういうものを本当につくっていく人と、人のものをピッと持ってきて薄めてペッというのが好きな人といるんですね。そういう人が横浜にたくさん出てきて、世界中にイミテーションを売ると。これは日本の工芸技術、それから技能、こういったものが駄目になるんじゃないかと思っていたらしいんです。それは宮川香山の本の中に、椎野正兵衛に言われて、椎野正兵衛邸で第1回横浜陶器展というのをやろうと。それはやっぱり、日本の持っているいい文化がなくなっちゃうじゃないかと。あまり商売だ、商売だといって薄めて、松尾儀助たちが世界中に日本のものをくっ付けたものを売りまくっていくと、これは良くないんじゃないかといって、反抗しているわけですよね。
それでまあ、この人は相当そういうものに造詣が深かったんだろうということを思ってましたところ、ごく最近、正兵衛のデザイン帳というのが出てきて。さっきもちょっと言いましたが、ポラックさんにも見せたら、「きれいだね。すごいね」と、こう言うわけですね。日本人は名前のある人をすごいと思っているわけですよね。しかし、出てきたデザイン帳には名前が書いてないわけですよ。デザイン帳ですから。ところが、ある方がこの間、これを見に来られて、「これはすごいよ」と。「あんたの様な人の持っているものではないよ」と、こう言われて、「ああ、そんなもんですか」と。そういう日本の絵画の巨匠の中でも、本当に筆さばきのいい人が描いた絵を、実はデザイン化して、だんだんモディフィケーションして、ヨーロッパのデザインなんかにも合うようにして、鳥や花や草や、そういうものをモチーフにしていたんです。
明治30年ごろですか、初めてバルセロナで万博があったときに、正兵衛のつくった花鳥柄のショールを、バルセロナの人たちが非常にびっくりして。これはフランスから出たジャポニズムが、大体スペインに行くのに20年ぐらいかかっているんですね。フランスというのはとにかく、後で話しますけど、非常に他人の文化を理解したり、日本人を理解してくれるんですよ。不思議なんだけど。フランス人って、そういうふうに見えないでしょう。だけど、本当はすごく日本のことへの理解力がすごいんですね。そこからヨーロッパに出ていったジャポニズムが、二十何年たって、バルセロナでみんなが「これだ」というので、正兵衛の花鳥柄をみんな写して、ビルの中にモザイクにしたり、グラスに掘ったりしているんだって、そういう研究家が来て言うんですよ。「おまえ、見に来い」と言うので、去年行ってきましたよ。
本当にあるんですね。1880年ごろにバルセロナの市街というのはでき上がっている。旧市街じゃなく新しいものです。新しいといっても1880年代で、その中にそういうものがたくさんあるんですよ。「へぇー」と思って、何でそんなところまで横浜くんだりから花鳥柄のデザインが飛んでってるのかと思うけれども、それぐらい日本人の持っていた文化遺産というのはすごかったんじゃないかと。果たしてそういうことを僕らは何か教わっているのかというと、尾形光琳の構図を、フランスの絵描きが参考にしている、そういう話は聞いているんですが、実は日本の工芸技術とか、ものづくりに対して、ヨーロッパの人、あるいはアメリカの人が、開港後にどれぐらいの目を持って見たかということを正しく伝えられていないんじゃないかということなんですよ。
それで、正兵衛は最後にもう嫌になって、「ばか息子と、ばかな弟がやればいい」ということで、ひいじいさんは死んでしまったんだろうと私は思うんです。そうすると、しばらくたって、私みたいな変なのがニョキニョキッと出てきて、何かごそごそやってみると、世界中からそういうようなものが出てくるということだと思うんです。当然、明治6年のウィーン万博では、富岡製糸場さんと一緒に正兵衛も向こうに行っていますから。そのときに、同じ賞位も取って、絹製品の管理をしているわけですね。ですから、絹糸のほうと絹製品で、もちろん交流もあっただろうし、多分ここにも来ているんではないかと思うんです。ひいじいさんが。そういう意味で、何か全く違うような感じはしないんですね。
それと、私はアナログなものから、デジタルやオプティカルな製品まで幅広くやっていたんですけれども、どんなことをやっても、もう一回、ものづくりする人は、何のためにものづくりをするかとか、一体我々はどういう希望、市場サイズを持って、何をしたいのかということを、もっとしっかり考え直さないと駄目なんじゃないかという気持ちをすごく持っているんです。アメリカにもイギリスにも、いろんなところに会社をつくってみたんですよね。私の方針は、その国につくったときに、日本人の社長を置かないというやり方なんです。日本人が、いきなりイギリス人にすぐなれませんよね。大体3代ぐらいかかるんじゃないですか。もう、日本語がわかる家族がいなくなるころになってやっとイギリス人になったりね。アメリカ人だって、やっぱり二世じゃ駄目で、三世か四世ぐらいになると、顔は日本人だけど、考え方違うなというと、やっぱりアメリカ人になっているわけですね。
それが、日本人が出ていって、アメリカの会社をやるだとか、イギリスの会社、ドイツなんていっても、僕は難しいと思うんだよね。それならさっき言ったように、フランスの人が本当に僕らのことを理解してくれるんだから、彼らでやったほうが早いんじゃないかと。彼らとシェイクハンドしてもいいんじゃないというようなことを、この間、ポラックさんに言ってみたんですよ。大体、みんな、フランス人ってのは本当に絵描きばっかりだと思っていたら、実は写真機を発明したのもフランス人だし、トーマス・エジソンが蓄音器なんか発明するわけないじゃないですか。あれはフランス人が発明したんですよ。2人のフランス人がつくったものを、商品化したのがトーマス・エジソンなんですね。ジャガードって人が、ジャガード織機をつくったから、絹の織物がバーッと世界に出ていって、屋根の高い織物工場がいっぱい世界中にできたわけだし。
私の隣の人が国鉄に勤めていて、新幹線をつくるときにフランスに行って勉強したんですよ。何でかというと、フランスの鉄道のテクノロジーがすごいんだって。あそこに行って勉強しなきゃ、新幹線は走らないと言うんだ。それが今聞いたら、そんなことは言わないでしょうね。「新幹線は世界一だ」って、こう言いますよね。子どものころ、バチスカーフ(スイスの実験物理学者ピカールが発明?)なんていう潜水艇があってね。みんなで「6,000メートルまで潜れる」なんて言ってましたけど、今は、しんかい2000なんて言っているわけですよね。みんな自分でやったような錯覚をしているんですけども、結構フランスのものなんですよ。
エグゾセミサイルだって、ちゃんと当たるじゃないですか。だけど湾岸戦争のときに見たら、アメリカのミサイルってほとんど外れていたじゃないですか。結構フランスの人って、ものづくり、すごいんですよ。ある日本のメーカーで、世界の工場でいろんなものをつくってみたら、一番ものがちゃんとできたのはフランスの工場だった。これは本当の話ですよ。
それぐらい我々は、現在ものづくりとかいろんなことを考えても、何かちょっと勘違いしちゃっているんじゃないかなというふうに思って、私は死ぬまで何かそういうことを、嫌みを言う嫌なじじいになって、あちこちに行って、ちょこちょこ、ちょこちょこ言って歩こうというふうに今思っているわけなんですね。
それで、今回は、こんなすごい資産を持っている富岡に来たわけです。これはすごいだろうなと。多分、2兆円から3兆円ぐらいは、そのブランド価値あるねと。そうなると、みなさんもちょっと考え方が変わるでしょう。2~3兆円あるんなら、ちょっとやろうかと、変わるわけですよね。みんながそう言わないから、あんな古い建物どうするんだよなんて言っているけど。いや、これはすごいんですよ。
で、僕はフランスに行ったときに、百何十年前のフランスのガラスがあそこにはまっているぞだから見に来いと。板ガラスがまだまともにつくれない時代だから、うにょうにょとゆがんで見える板ガラスでね。なかなか今見ると風情があっていいなと思いますね。あの窓枠もフランスから持ってきたんだって言いますから関心しますね。あのレンガは、日本の土をこねてる人、つまり瓦職人を連れてきて、レンガのつくり方を教えたと言うんですよね。自分のところの屋号を入れてつくっている。みんな、載っかっているわけですね。そういうのを見たって、これだけ地震の多い国で、この富岡製糸場は今までつぶれなかったわけでしょう。もちろんその間に片倉さんだとか、いろんな方がメンテナンスされたと思いますよ。こんなふうに100年以上続いているものをもうちょっと有効利用して、日本からもう一回新しい、21世紀型の工業化を実現する礎になってはどうかというのが、実は私の提言なんですね。
ご覧になった方いますか。2年前の正月の番組で、田中直毅という解説員が未来学者に「未来はどうなるんだ」と聞いているわけですよ。田中直毅の目を見ていると、全然わかってないんですね。頭の中はエコノミックアニマルになっちゃって、なかなかわかってない。そして未来学者は何て言ったか。田中直毅が「日本の大きな会社というのは、21世紀どうなるんでしょうか」と聞くと対する学者は、「ええ、全部なくなります」なんて言うわけですよ。(笑)
もう、見事ですね。それを言って2年目に、「あ、トヨタさんがおかしい」とかなってきているわけですね。それは何かと言うと、金の力。技術、技能じゃないですよ、技術。それから組織のでかさ、グローバル化。この4つで食っている会社は生き残れないと言っているんですね。私が言っているんじゃないです。私はいい加減ですけど、それはちゃんとした、日本の選んだアメリカの未来学者が言っているんですね。じゃあ、どうなんだというと、もっと個人化するんですね。個人に世界の富が集まるって言っていましたよ。だから、みんな、チャンスがあるわけですよね。個人ですから。チャンスがある。じゃあ個人に富が集まるっていう意味は何かというと、やっぱり技術というのはもう、大体開発がほとんど行き着いてきてるんですね。みなさん、ハイブリットなんていうのは技術だと思っているでしょ。清水さん、ちょっと耳をふさいでいてね。この間、清水さんからその話を聞いたときに、やっぱりそうかと思ったんだけど、蚕のハイブリッド化というのは問題があるんじゃないかと僕は思っていたんですね。ハイブリッドという考え方は、その場しのぎで一時しのぎにはなるんだけど、基本的な技術ではないんですよね。そういうものをよく見ていないんですよ、みんな。例えば、何か風車で発電するといいなんて言っているでしょう。で、あそこにいる、あのドイツのフィッシャー君に、「ドイツに行けば風車はいっぱい建っているじゃないか。こんな、ぐるぐる回っているのは。あれ、採算は取れているのか」と聞くと、「ううん、難しい」なんて言うわけ。「何で難しいの」と言ったら、「1回止まっちゃったら、動かすのにすごい電気がいるんだよね」と言うわけだ。「それは難しいな」なんてね。
だけど、日本じゃあ、「私は風力発電を考えていました」なんて言うと、もうテレビが、こんなすごいことをやったみたいなことを言うわけですよ。皆さん、もっとちゃんとした目で見ましょう、考えましょうよ。本当に正しいんでしょうかと。我々が正しいと聞かされているものは本当に正しいんでしょうか。こんなことを考えたときに、それを聞いて判断するのは皆さんなんです。言いたいやつは勝手なことを言いますよ。だけど、それが正しいかどうかという判断力を我々は持っていたのに、最近ちょっと使ってないんじゃないかと思うわけです。こいつをもう一回使って、正しい判断の下に、21世紀型の、もう一回、シルクであり、あるいは富岡の産業というものを考えたら、多分全然違った考え方が出るんじゃないかと。
「金がねぇよ」と。「金は要らないと言っていますよ」と。「いや、そんなパワーがなきゃあ。組織がなきゃ。」「組織は要らないと言っていますよ」と。「世界に……」「グローバル化しちゃうと、駄目だと言ってますよ」と。そうじゃなくて、個人に富が集まると言っているんだから、頂けばいいじゃないですかと。発信する手段というのは、いっぱいあるだろう。その発信する手段を上手に使って、自分たちが一体何をしたいのか、私の熱い気持ちをどうやって伝えたいかということしか、多分ないんだと思うんです。
私が小さいながらも、世界の人に支持されるようなブランドをつくれたのは、多分自分が持っていたその熱い気持ちが彼らに伝わったからではないかと思うんですよ。熱く語るっていいますかね、そういうことが多分一番基本にあるんだと思います。テクノロジーは日進月歩しているなんて思うんですが、ここ2~3年は、あまり進んでいないんですね。そうじゃなくて、もっと人間に回帰したものの考え方でのものづくり。
野菜でも何でもそうですけどね。食べるとみんな、キュウリもレタスの味がして、何か変だなと。トマトって何であんなに甘くなっちゃって。僕なんか糖尿病ですからね、甘いトマトなんか食いたくないんですけど、みんなやたらと甘いんだよね。桃太郎とかいっちゃって、何か甘いのが出てきた。聞いたら、「最近は野菜は接ぎ木してつくるんですよ」なんて知っていました?みんな、知ってますよね、そういうこと。だけど、東京の人なんか知らないんですよ。「接ぎ木してつくるの?」と。だから、根っこが違うんだよと。根っこが違えば味も違うだろうと。何でそんなことをする必要があるんだと。そう思っていたんです。
この間、たまたまあちらにいらっしゃる清水さんに「清水さん、日本のシルクはなくなっちゃうんでしょうか」って聞いたら、「ブラジルに残ってますよ」なんて言うんですよ。これは強烈でしたね。実は僕も、何でブラタクの糸がすごいかというのを追い求めていて、この間たまたま坂本さんという人がいるんですが、ブラジルで藤村製糸をやっている人ですね。ブラタクというのは、ブラジル拓殖組合のことですね。カネボウの拓殖組合がつくった糸が今、世界一なんですよ、6Aっていうグレードで。
何でそんなことができるんだって。絶対日本人がやったはずだと。誰がやったんだと。名前が聞こえないって、この間問い詰めたら、教えてくれましたよ。たしか、ハロルド・タニグチとかいっていましたよ。ハワイの2世の人が、日本の生糸づくりの良さを絶対にそのまま残すんだといって、ブラジルに残したんだそうですよ。なんと、日本人よりか、日本を離れていった人のほうが、日本の本物をわかって、何とか残そうという気持ちで残していた。だから世界一の糸は、日本の糸は残っているんです。
それで聞きましたら、日本の作った蚕種というか、日本が当時一番いいと思っていた蚕を、大事に、大事に続けて、決して新しいものに走ることなく、本物のものをずっとやっていたと、こうおっしゃっていた。「ああ、やっぱりそうなんだ」と思いました。何か僕らは勘違いして、絶えず自分は進んでいるとか、新しいものをやっていることで走り続けていましたけども、よく考えてみたら、余計な道を走っていたかもしれない。違う道を行っちゃったのかもしれないということを、ちょっとこういう建物の中で、もう一回考えてみたいなと思って、今日参りました。
お話がちょっと長くなりましたが、少しでも皆さんにそういったことが伝わってくれれば、日本の将来は全然不安がないなと思いますので、ぜひひとつ、今後も富岡を中心に、昔の明治時代の殖産興業とは違う、新しい文化をここから発展させていただきたいと思いまして、私のお話を終わりにいたします。どうもありがとうございました。












